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2008年7月

非情な「鉄の処女」

「鉄の処女」と言うと、いかにも硬そうな、深窓のお嬢様のイメージを抱く。

しかし、ヨーロッパ中世に現れた、「鉄の処女」は、まったく違う。

真夏であっても人の血を凍らせる、まことに不気味な処刑器具兼拷問器具のことである。

金属あるいはそれに類するものを、中に人が一人入れる程度の空間を設けて作る。いわば、人の形をした棺おけみたいなもの。

棺おけは寝かせるが、この「鉄の処女」は、直立した状態で使用される。

前部の蓋の部分は、片側に蝶番をつけて、開閉できるようになっている。蓋の表には、女性の顔が描かれている。なかには、聖母マリアの顔もあったという。だから、「処女」なのだろう。

その蓋の部分を開けて覗くと、人は恐怖に駆られる。

扉の内側には、根元が太く、先が鋭くて長い頑丈な釘が、上下に数本取り付けてある。

この「鉄の処女」の扉が開かれ、中に人が押し込められたらどうだろう。

上部の釘は、丁度目の位置にあたり、両眼を鋭く刺しぬくだろう。また、下部の釘は、確実に内臓や心臓を貫いてしまう。

1808年にナポレオンが、スペインに侵攻したとき、トレドの異端審問所の牢獄の中にも「鉄の処女」があったという。ここでは、異端審問の拷問器具として使われていたのだろう。

一度、この処女に抱きつかれると、命は確実に奪われてしまっただろう。拷問の場合は、扉の開閉を加減したのかも知れない。

この「鉄の処女」と深い結びつきを示す女性として、16世紀のハンガリーに実在したある伯爵夫人の名が上げられる。

彼女は、名前を「エルジェべト」という。ポーランド王も出したという高貴で富裕な家系に生まれた。

彼女は、この「鉄の処女」の創作者としての悪名だけでなく、「吸血伯爵夫人」としても名が知られている。何百人もの若い娘を殺して、その生き血を浴びることに悦びを感じていたからである。その際に、彼女の愛した「鉄の処女」が活躍したと言われる。

彼女については、また、ここに詳しく紹介してみたい。

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夏は男で、冬は女で行こう

中世のイスラーム世界では、男色は、タブーでも何でもなく、普通に行われていた習慣だったという。

例えば、ペルシア文学の傑作のひとつに、11世紀の中ごろ、カイ・カーウスによって書かれた、「カーブス・ナーメ 」という書物がある。

これは、王が、自分の後を継ぐべき息子に書き残した処世訓である。タイトルは44章にも及び、各章が、人生のいろんな場面での細かな処世の指針を述べている。

例えば、
第5章「父母の恩を識ることについて」
第10章「食事の作法について」
第21章「蓄財について」
などなど、事こまかに諸種の項目について述べている。

第23章には、「奴隷の購入について」があり、この時代の奴隷売買の実態をつぶさに知ることができる。

また、第15章に、「性について」という一章がある。一部抜粋してみる。

「知れ、息子よ。もし人を愛しても、酔っていようと素面であろうと見境無くいつも情交に耽ってはならぬ。」
「その気になるたびに行ってはならぬ、それは獣の行為で、獣は時をわきまえず、機会あるごとに行う。」
と性への耽溺を戒める。

また、
「女と若者のいずれの性に偏ってもならぬ。いずれからも愉しめようし、いずれかがそなたの敵にならぬようにせよ。」
と、女色と男色のいずれも平等に実行することを勧めている。

当時の社会では、男色はなんら奇異な習慣ではなく、王侯貴族の間では、一般に行われていたことがよく分かる。
戦争で負けて、奴隷にされた少年のうち、特に見目麗しいものは、ここに出てくる「若者」(「ダラーム」)として、王侯貴族の、夜の相手をつとめたようだ。その中でも、特にトルコ系の少年が、巻き毛で、美形で可愛らしく人気が高かったといわれる。

さらに、
「欲求があろうがなかろうが、炎暑、酷寒には慎むがよい。この両季節にことを行うはきわめて有害で、特に老人にはそうである。」
と述べている。彼自身、真冬または真夏の事の最中に、危うい目にあったか、または、周囲の王侯貴族の腹上死などの噂をしばしば聞いていたのかも知れない。

そして、「夏には、若者、冬には、女をかわいがれ。」と述べてある。
再度、男女の使い分けを、丁寧に教示しているのである。

この章の最期に、「あまりその気にならぬようにこの章は簡略にしておかねばならぬ。」と述べている。この作者の、該博な知識と知性、また深い愛情とともに、そこはかとないユーモアを感じさせ、近親感がわく。

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怪獣「ミーノータウロス」

その昔、一世を風靡した谷岡ヤスジ氏の「バター犬」という漫画があった。その犬は、女性の秘所に塗られたバターをなめ、当の女性が悦ぶというものである。その奇抜な発想と、ヘタウマタッチの絵と言葉の荒さが、コマ面を縦横に勇躍し、かなりインパクトがあった。バカバカしいながら、つい読んでしまう「くせになる漫画」だった。

現代でも、ペットの犬やサルに対する想いが、余りに深くなり、交情してしまう話はありそうである。

ギリシア神話の世界でも、立派な牡牛に惚れて、子供を作ってしまった女性がいる。クレタ王「ミーノース」の妃「パーシパエー」である。

彼女は、ポセイドンから夫である王に与えられた牡牛にすっかり恋をしてしまった。その牡牛が余りに雄雄しく、見事だったからである。

彼女は、手下の天才技師「ダイダロス」に命じて、青銅製の牝牛を製作させた。この人工牝牛の中に潜んで、牡牛の発情を誘い、思いを遂げてしまった。

彼女が、どんな形で、青銅製の牝牛に潜んでいたのかは想像をたくましくするしかない。

この結果、生まれた怪獣が、牡牛の頭をもつ人間「ミーノータウロス」である。

王は、本当は実子ではないが、名目上我が子としての「ミーノータウロス」を恥じて、世間から隔絶することにした。迷宮「ラビリントス」を造営し、ここに「ミーノータウロス」を閉じ込めることにしたのである。「ラビリントス」は、いわば、迷路の巨大バージョンである。

この迷宮の設計をしたのも、また天才技師「ダイダロス」だった。王は、この迷宮の完成後、「ダイダロス」を証拠隠滅のため葬ろうとしたが、失敗した。

こうして、怪獣「ミーノータウロス」は、迷宮「ラビリントス」で暮らすことになった。怪獣でも、生き物だから、食べ物は要る。

この「ミーノータウロス」を養うために、毎年、クレタの支配下のアテナイ人が、乙女と青年各7人つつを犠牲として捧げることになっていた。これじゃたまらんと、アテナイ人は英雄「テーセウス」をこの迷宮に送り込み、遂にこの怪獣を退治した。

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狼おんなに変身

「おとこは狼なのよ」とは、一世を風靡したピンクレディの歌。だが、突然狼に変身してしまうのは、男性ばかりではなかった。

「16世紀のフランスでは、狼変身の噂とそれゆえの処刑が疫病のように流行した」(マーカタンテ「空想動物園」)とある。この本の中で、当時のある物語がとりあげられている。

ある一人の森番が、狼に変身した貴婦人と格闘して、足を一本切り落とした。荘園主の主人のもとに、その足をもって行くと、足は、人間の手に変わった。その手の指にはまっていた古い指輪から、その手が荘園主の妻のものであることがわかったとある。

この話の真相は、若い森番に惚れたご婦人が彼に迫って、いさかいの上、腕を切り落とされたことを暗示していると解釈できるだろう。

だんなの扱いがわるいと、金のあるご婦人は、その精力と暇をもて余す。この荘園主のご婦人も、つい身近な馬力のある若い男性に惹かれ、思わず挑んでしまった。ところが、その気のない青年にとっては、欲情に燃えた目と態度は狼にみえるほど怖かった。当時は、魔女や人狼は、世間にありふれた実在と信じられていたから、ご婦人が狼に変身したと青年が錯覚したのは当然といえよう。

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皇女アナスタシア

最近の報道によれば、ロシアの最後のロマノフ王朝の皇帝であり、ソビエト革命派に一家ともども殺害されたニコライ二世の遺体が、ようやくDNA鑑定で確認されたと言う。

ニコライ二世は、皇太子時代に日本を訪問し、かの有名な大津事件にも遭遇した不運の皇帝である。1917年10月のロシア革命の発生により、ボリシェビキ政権により一家は拉致され行方不明となった。後に、全員銃殺されたといわれ、遺体らしきものが見つかったともいわれた。しかし、数々の情報が流れ、真相がよく分からなかった。

事件後、一年ほどして、その生き残りの皇女アナスタシアを名乗る女性が、1920年2月にベルリンに突然現れた。

彼女によれば、一家銃殺の際に、同情したソビエト軍の一兵士によって匿われ、この兵士と夫婦関係になり、一子まで設けたという。だが、彼が戦死してしまい、彼女は、服に縫い付けた宝石などを切り売りしながら、ベルリンにたどり着いたというのである。

彼女が、あまり多くを語らず、また、彼女を知る証人もほとんどいなかったので真相ははっきりせず、論議をよんだ。ある者は、本物だといい、ある者は、ポーランドで失踪した精神病歴のある、フランツィスカだと主張した。

彼女は、1928年には、アメリカに渡り、「悲劇の主人公」として社交界でも有名人となった。そして、沈黙のまま1984年に亡くなり、真相は闇のなかに閉ざされた。

今回のDNA鑑定では、ニコライ二世一家の、個体まで識別されるのだろうか。そうであれば、一世紀近くを経て、ようやくロマノフ王朝の最後の最期が明らかになるわけだ。

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コロンブスのお土産: 梅毒

1492年にコロンブスが、アメリカ大陸を「発見」した。

もっとも、もともとアメリカ大陸には、ネイティブアメリカン=インディアンが居住していたのだから、「発見」とはヨーロッパ中心史観からみた「発見」である。

さて、アメリカが「発見」されて初めて、「新」大陸アメリカと旧大陸ヨーロッパとの接触が始まった。人の接触は、文化や言葉の接触と同様に、必ず病原菌の接触も伴う。つまり、新旧大陸のお互いの病気の交換となる。

新大陸からは、西インド諸島の風土病であった「梅毒」が、船乗りを介してヨーロッパにもたらされた。この梅毒は、その後ヨーロッパからアジアへと猛威を振るって拡散して行く。一方、新大陸には、旧大陸ヨーロッパから各種の病気がもたらされた。天然痘、ペスト、コレラなどの伝染病である。

これらの伝染病は、新大陸に甚大な被害をもたらした。例えば、1492年に3000万人以上と考えられたメキシコの人口は、100年内に300万人に激減したという。これは、侵略者であるスペイン人による殺戮以上に、ヨーロッパから持ち込まれた伝染病の影響といわれる。

新大陸の人々は、大昔に旧大陸ユーラシアから、ベーリング海峡を渡って、アラスカから北アメリカ大陸、そして南米へと至った。その後、何万年も経過して、旧大陸の伝染病に対する免疫力を完全に失くしていたのが最大の原因と言われる。

参考:笈川博一「コロンブスは何を発見したか」

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鳥葬

鳥葬とは、別名風葬ともいい、遺体をハゲワシに食わせて葬る葬式の方法である。イランとインドの一部に残るゾロアスター教徒や、チベットの仏教徒が、現在も行なっているといわれる。鳥が遺体を食べてしまうのだろうとある程度の想像はできるが、具体的なプロセスのイメージが沸きにくい。

この鳥葬について、「チベット旅行記」を著した河口慧海が、約100年前に、当時のチベットの鳥葬について、詳細に説明をしている。彼は、当時鎖国していたチベットに、1900年から1902年に、命を賭して潜入した偉大な僧侶であった。

彼の、「チベット旅行記」での説明に拠れば、次のとおり。

遺体を木の台のようなものに載せて、布に包んで、山頂に担いで運ぶ。平面のある巌に遺体を置くと、布を取り除く。

坊主が読経をするなか、一人の男が大きな刀で腹を断ち割り、内臓を取り出す。その後、首、両手、両足とばらばらに切り離す。

さらに、肉と骨を切りわける。骨から切り分けた肉は、そのころ、この巌の周囲に集まってきた、ハゲワシに与える。

骨は、そのままでは、ハゲワシが食べ難いので、大きな石で叩き、細かく砕く。巌の上には、10ばかりの穴が開いているので、骨や脳みそを一緒に打ち込んで、麦焦がしの粉をいれて、細かくなった骨や肉片とともに団子にする。

この団子もハゲワシにやると、髪の毛以外はすっかりきれいに食べる。

これが鳥葬の一部始終である。

ところで、骨を細かく砕く作業はなかなか時間がかかるという。参加した人たちは、途中で、お茶や麦焦がしを飲食して休みをとる。、彼らは、手も洗わず、手についた肉片や骨片や脳みそなどをいっこうに気にしないで、そのまま、飲食する。つまり、遺体の一部を麦焦がしの粉とともに食べてしまうのである。これが「実は旨い。仏も悦んでくれる」と言う。慧海は、これには抵抗があり、野蛮な風習であり理解しがたいと述べている。

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ギロチンの起源と誤解

ギロチンと言えば、処刑台で、罪人の首に上から落下して、一瞬のうちに切り落としてしまう残忍な処刑道具とのイメージがある。しかし、実際は、罪人を楽に死なせるために考案されたもので、発明者もギロチンではない。

フランス革命当時、罪人とされた場合、王侯貴族は首をはねる斬首の方法で、一般庶民は縛り首の方法で処刑された。しかし、どっちの方法も、処刑人の技の巧拙で、直ぐには絶命せず、苦しんで死ぬ場合が多かったという。

当時、医師であったルイス博士が、これを憂えて、大きな刃が落下して一瞬にして首を切り落とす処刑法を考案した。これなら苦しまなくてすむ。この処刑法を、革命派で同じ医師であったギロチン博士が、「残酷さのない処刑方法」として、強く革命議会に働きかけて、遂に採用となった。彼の議会での弁舌が余りに上手く、強く人々の印象に残ったことから、この処刑器具がギロチンとよばれるようになったらしい。

1792年以降、身分にかかわり無くフランスでは、死刑はこの方法で執行された。ルイ16世は1793年1月に、その妃マリーアントワネットは、同年10月に、ギロチンによって処刑された。

なお、フランスは1981年に死刑廃止法案を可決し、ギロチンによる処刑は廃止された。それまでの長い間、ギロチンでの処刑が執行されたのである。

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ホムンクルス

現代では、万能細胞を作るiPS細胞の製造に関して、最先端の科学技術の世界で国際的な熾烈な競争が行われている。これを利用して、人間の複製も考えられるわけだ。

古代から、人間の複製を作ることを目指した人はけっこういた。ロボットにつながる、機械的に動く人間の模型を「アンドロイド」という。一方で、化学的な方法で作り出した人間の小型の複製を「ホムンクルス」と呼ぶ。

中世の、ヨーロッパ世界及びアラブやイランを中心とするイスラーム世界において、錬金術師といわれる人々がいる。彼らは、金以外の金属、例えば、鉄とか鉛とか銅などに、色々な触媒を加えて、本物の金を製造しようと真剣に研究した。

その錬金術師のなかには、本物の人間を科学的に作り出そうと試みたものもいた。特に、16世紀の占星術や魔術の大家であった、パラケルススは、男子の精液の腐敗から、女性の力を借りないで、ホムンクルスが製造できると本気で考えた。実際に自分の精液と化学薬品でホムンクルスの創造に成功したとの伝説がある。その実物はかなり小さく、ある期間生存したと言われる。具体的な製造方法は、彼の著書「物性について」に記述してあるらしい。興味ある方は試したらいいだろう。

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アダムとイブはへそがあったのか?

聖書によれば、アダムは、神によって創生され、イブは、アダムのアバラ骨から、同じく神が創造されたことになっている。

中世のヨーロッパの画家たちは、アダムとイブを描く場合、へそをどうするかは大問題であったという。神は自分に似せて、「完全なもの」をおつくりになった。ならば、へそのない人間は不完全である。しかし、へそがあるとすれば、それには神の深い英慮があるはずである。神の創ったものに、目的のない無駄なものものなど無いはずだからである。

困った画家たちのなかには、イブの場合は、長い髪で、へそをなんとか誤魔化したものがいた。しかし、アダムはそうは行かない。へそをつけたり、つけなかったりした。

ミケランジェロは、ちゃんとへそを描いたという。彼は、当時の法王と親しかったので、これで一件落着とみんなは考えた。ところが、へそ反対を唱える、大学者トーマス・ブラウンが現れ、混乱は蒸し返された。彼は、「へそみたいな余計なものは、神が、効用の無いものを与えたことになるから誤りである。」と主張した。

また、ある者は、神が余計なものを付け加えたのは、人間の「常識的」という罪に誘惑するための、「神のわな」であると論じた。つまり、神が「人間を引っ掛けようとして、アダムのへそを付け加えた。」と言うのである。これに対して、「神が人間を引っ掛けようとする筈がない。」との反論を生んだ。

しかし、この議論は、決着のないまま、現代にまで続く。
1940年代に、アメリカの下院軍事委員会は、ある本を軍人に配布するのに反対した。
その理由は、その「人種のさまざま」と言う本の挿絵に、「アダムとイブがへそをつけて描いてあるからだ」と。実際は、この本の内容が、当時のアメリカ議会の意図に反し、知性で、白人が黒人に劣るとの調査が掲載されていたため、宗教問題にかこつけて、配布を回避させたのが真相のようだ。

アダムとイブの絵画を見る機会があれば、へそをよく見れば興味がさらに沸くかも。

参考:エヴァンズ「ナンセンスの博物誌」

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